Archive for 2006年4月

現在の通貨システムは持続可能か?

4月 26, 2006

今では持続可能性の問題に関心を持つ人が増えているが、この概念を通貨の領域に応用しようという試みがほとんどないのは奇妙な話だ。どの国の経済に 対しても通貨危機が非常に深刻な影響を与えることは世界各地で起こった事例(1997年のアジア、1998年のロシア、2002年のアルゼンチンなど)を 見ると明らかだが、持続可能な通貨制度の構築について金融アナリストが激論を展開している様子は私には想像しにくい。

ドイツの建築家マルグリット・ケネディ(ド イツ語・英語)は、この問題に答えを出そうと試みた人の一人である。彼女は自分が取り組んでいた環境にやさしい建築には現在の通貨システムは都合が悪いこ とを発見し、経済システムを通貨面から研究し始め、いくつかの構造的な欠陥があるという結論に達した。以下、彼女の主要著作「インフレとも金利とも無縁な お金」(ドイツ語英語日本語抄訳)での主要点を紹介する。

1. 指数関数的な成長(ドイツ語英語

複利によって現在の通貨システムは、経済が永遠に、しかも加速度的に成長することを要求している。だがこれは自然界では普通ではなく、たとえば人間 は大人になれば物理的な成長に終止符が打たれるが、指数関数的なカーブの場合、ちょうどガン細胞が成長を速めて体全体を食い尽くすように、天然資源や労働 力を使い尽くして破滅する運命にあるのだ。

2. 金利負担はどの事業にとっても大きな負担(ドイツ語英語

借金の返済時だけでなく、商品やサービスの支払いの際にもわれわれは金利を支払っている。たとえばバス代の一部はバス会社の利息負担に充てられてい るわけであり、ケネディの試算では平均で価格の4分の1に達する。金利のせいで環境にやさしい事業が「儲からなく」なることも少なくないことに留意された い。

3. 金利を通じた富の不公平な再分配(ドイツ語英語

だが、経済の民主化の面での利息の最重要ポイントは、これにより貧しい人から金持ちへの富の移転が起きていることだ。当然だがお金のない人は大きな 買い物(住宅や乗用車など)を購入するときにお金を借りなければならず、元金に加えて金利を支払う義務を負う一方で、ごく一部の富豪はこの状況を利用して さらに豊かになっている。ケネディによると人口の8割以上はこうして損をする一方で、一握りの大富豪がこのシステムで得をしており、このような性格の通貨 システムが社会正義の観点から許容されるべきかという疑問を投げかけている。

倫理銀行: 社会や環境にやさしい事業への銀行

4月 22, 2006

このブログは、ユートピア的な空想とも思える私の理論的枠組みを長々と論じるだけの場所ではない。このウェブスペースでは、経済の民主化への道を示唆しているように思われる現実の事例についても紹介してゆき、私の考えが実現不可能ではないことを示してゆく。

1999年にイタリアのパドヴァ市で開業した倫理銀行(Banca Etica)は、社会や環境のためになる事業に投資する好例である。すでに2万人以上の会員から4億ユーロ以上を集め、1700以上の事業に融資している。

http://www.bancaetica.com/(イタリア語・英語・フランス語)

この銀行は、従来の銀行では満足できなかったNPOや協同組合などの関係者などが集まって作られた(詳細については前回の記事を参照)。預金者は自分の預金の用途として、4つの分野(社会協力 / 環境保護事業 / 発展途上国支援 / 文化活動)のうちいずれかを選択でき、銀行は対象者の返済能力に加え、事業の社会面・環境面での影響も審査して融資の是非を決める。以下は、この銀行が融資した事業の一例である。

– ホンジュラスのコーヒー生産協同組合とのフェアトレード

– 南イタリア・リアーチェの歴史的街並みの再生

– ベネディクト派修道院による有機農場

– 地下経済への依存脱却のための有機農業

– 薬物中毒患者への支援

– 売春婦向けの健康サポート

– アルバニアへの経済支援

この銀行のもう一つの特徴として、実際には代表者を通じた間接的な形ではあるものの、協同組合であるこの金融機関を預金者が運営していることが挙げられる。有志に関する全情報への透明性が確保され、倫理銀行関係者なら誰でも経営の実情が把握できる。倫理銀行からの収益は他の民間銀行ほど高くないかもしれないが、自分のお金が実現していること(社会や自然への貢献)に誇りを持つことができる。悪い話ではないと思うが、いかがだろうか。

民主主義と金融

4月 18, 2006

企業の民主的運営に関する議論だけでは、われわれの最終目的の達成には不十分だ。銀行などの金融機関がどの事業を発展させるかを決めている以上、この分野の再検討も重要となる。

実際、経済の担い手の中でも金融セクターほど管理が非民主的なところはない。たとえば1万ドルを銀行に預けた場合、銀行に倒産の可能性がないとすると預金者の唯一の関心は利息、つまり資産の成長率である。利益が増えれば満足するが、その利益を出しているのがマクドナルドや有機農家、劣悪な条件でナイキの工場で働く東南アジアの労働者やイタリアの謙虚な職人、ブラジルの熱帯雨林の破壊者やフィリピンで再植林事業を行うNGO(再植林が経済的に儲かる事業かどうか私は知らないが、あくまでも一例として)のどれであるかについては完全に無関心だ。

この構造のため、環境や社会を破壊する事業が繁茂する一方で、社会的起業者は十分な資金提供をなかなか受けられない。人権や環境を配慮したところで直接的な経済メリットがない以上(とはいえ、あまりにも無視するとボイコットなどの制裁の憂き目に遭うが)、これらを無視すると利益増につながるため、経営者は従業員の生活水準や環境の向上よりもコストの削減により関心を示すのはむしろ当然だ。とはいえ、自分の働く会社からの給料が安いと訴える一方で、定期預金の利息が少なすぎると文句を言う人の頭の中では、一体どんな論理が貫かれているのだろうか。私は理解に苦しむ。

人間や環境にやさしい経済を望むならば、お金の使い道をわれわれ自身でチェックできるようにしなければならない。社会や環境面で責任を持った事業にわれわれの資金を注ぎ込むには、市民による通貨管理が不可欠だ。それとも、他人や環境を貧しくしてでも金儲けさえできれば、われわれは幸せなのだろうか。

資本主義でも共産主義でもなく

4月 15, 2006

現在の経済システムは資本主義と呼ばれているが、それは経済活動の主要な担い手である企業が投資家や株主と呼ばれる資本家に仕える存在だからであり、その経営は当然ながら民主的とは到底言えない。企業はたいてい株主が支配しているが、株主はこの経済アクターを打ち出の小槌としか見なさない。彼らの観点では従業員は機械やパソコンなど金儲けのプロセスに必要な道具に過ぎず、常に株主からの圧力を受けている経営者は利益の最大化のために費用の最大限の節約を余儀なくされている。月100ドルで働いてくれる人のいる中国に工場を開設する一方で、同じ労働力を得るのに10倍以上のコストがかかる米国や西欧、日本の工場は閉鎖するが、これはあくまで「経費の削減」目的なのだ。もちろんどの国でも従業員を保護する法律はあるが、経営者からすると従業員が機械と同じ水準のものであることは普遍的な規則であり、経営者は以下の優先順位をつける。 1) 株主(利益を出せなかったらクビになるため)、2) 顧客(お金をくれるから)、3) 従業員(簡単に代替可能なので)。

ここでは資本主義と市場経済の違いをはっきりさせておきたい。なぜかと言えば、市場経済なしの資本主義も資本主義なしの市場経済も可能だからだ。市場経済なしの資本主義の好例は独占(たとえばWindows)であり、この場合商品やサービスの唯一の提供者は可能な限り価格を吊り上げ、売上を増やす。また、生産者が誰からも支配されていない農民市場のように、資本主義なしの市場経済の実例は今日でも存在する。

20世紀はこの資本主義へのオルターナティブが興亡した時代だった。共産主義国家はあらゆる企業を国営化して株主をなくし、労働者の生活水準を向上させようとした。だが、資本主義では株主からの圧力という形で常に強制的に達成される効率の追求がなかったためにこれらの企業の業績は悪化し、キューバや北朝鮮を除くとほとんどの国がこの体制の放棄を余儀なくされた。

自分の働く企業の経営に従業員が関与できないという点では、両システムは共通している。彼らは自己管理できないシステムに翻弄されており、経営の掌握者が株主でも政府でもあまり違いはない。そうであれば、どうやれば自分の働く企業の経営に従業員が実際に影響を及ぼすことができるようなシステムを達成できるのだろうか。

政治的民主制と経済的独裁制?

4月 13, 2006

激烈な新自由主義が世界を席巻している。一例としてここ日本では、いわゆるフリーターや派遣社員という形で非正規雇用を甘受せざるを得ない若者が増える一方であり、彼らは不安定な雇用状況や低収入のため、結婚や子育てといった将来の計画ができない。正規労働者でさえリストラを恐れ、時には残業を含めて週70時間や80時間に及ぶ労働を行わねばならず、それに対する手当てが不十分だったり、あるいは全く出ないこと(いわゆる「サービス残業」)もあったりする。このような新奴隷たちは誰も現状に満足していないが、それしか生き延びる術がないのだ。

確かに、この島国の誇りである「和の文化」の前には個人が無力であるという点では、日本は極端な例である。一昨年のイラクでの人質事件が示すように、世間の感情を無視して法律で認められた権利に固執するとむしろ非難されるような国だ。だがドイツでも似たようなことが起こっており、工場の東欧への移転を阻止するために労働者が週35時間制を自主放棄する動きもある。会社からの解雇を労働者は恐れているので、彼らを喜ばせるには何でもせざるを得ないのだ。

政治的民主主義と経済的独裁制という2つの矛盾した原則がなぜわれわれの中で共存しているのか、私には理解できない。確かに好きな政治家を選ぶことはできるが、経済面での人権を奪われた現状ではそれが何の役に立つというのか。なぜ誰も、政治分野で今日存在している民主的な過程を、経済分野でも樹立しようと模索しようとしないのだろうか。

このブログは私たちの経済生活に変化をもたらすための、私のささやかな試みである。みなさんのコメントは大歓迎だ。